結城二十六名義で描いた漫画『羚文』
作曲家 菊田裕樹(第2回)

第1回に続き、菊田裕樹さんにゲーム音楽を手がける以前の話を伺っていく。アシスタント時代の話や、コアなファンの間で知られている別ペンネームでの連載作品『羚文』のことなど、漫画家志望だった頃を振り返っていただいた。

Profile
菊田裕樹 Hiroki Kikuta

作曲家。東京音楽大学特別招聘講師。1962年、愛知県生まれ。スクウェア(現スクウェア・エニックス)在籍時に『聖剣伝説2』『聖剣伝説3』『双界儀』の音楽を担当。独立後も、『シャイ ニング・ハーツ』『エスカ&ロジーのアトリエ〜黄昏の空の錬金術士〜』等、多数のBGM作曲を手がけるなど多方面にて活躍。公式サイト(http://hirokikikuta.com/)、Twitterアカウント(https://twitter.com/Hiroki_Kikuta)。

上京して『B・B』の漫画アシスタントに

—— 今回、特に伺いたかった「結城二十六」名義で活動されていた頃の話に入っていきたいと思います。大学の頃から、漫画家を目指そうと思われていたんですよね。
菊田 これまでお話したようにアニメを作ったり、漫画を描いているうちに、漫画を描いて飯を食えるかなと思ったんですよね。在学中から一応それらしい漫画を描いて、あちこち持ち込みなどもしていました。小学館にも持っていきましたし、徳間書店にも行って、今思うと、おそらく当時編集部にいた大塚英志さんにあれこれ言われたりしてね。で、全然芽はなかったんですけど、大学を卒業したあと、特にあてもなかったので、東京にきてアシスタントを始めるんです。小学館の方から「石渡治さんが連載を始めるから、そこにアシスタントで入ってください」と言われたのが直接のきっかけです。
—— なんというタイトルの漫画ですか。
菊田 『B.B』という作品の連載ど頭の頃ですね(編注:『週刊少年サンデー』で、1985〜1991年に連載されたボクシング漫画)。明大前の仕事場に1年ぐらい通って、あれこれ描いてました。
—— どんなところを描いていたんですか。
菊田 石渡君は、あまりアシスタントにあれこれ言わない人だったんですよ。チーフ(アシスタント)にオガタ君という人がいて、彼が凄く上手かったんですよね。そのオガタ君が現場を仕切っていたので、「これ描きな、あれ描きな」と言われて色々やらせてもらっていました。自分は全然下手でしたから、ちゃんと描けるまでにはずいぶんかかりましたけれど。
—— 『B・B』の最初の巻には、菊田さんが描いたところがあるわけですね。
菊田 載ってますよ。今見ると下手くそで申し訳ないですけれど。あの頃で印象深いのは、オガタ君の効果線ですね。彼は今何をしているのかわからないけど、あの効果線は素晴らしかった。芸術でしたね。見た瞬間に、オガタ君が描いた線だってわかるぐらいの上手さで。後に石渡君のところを辞めてから、僕は色々な漫画家さんのところにアシスタントにいくことになるんですが、そのうちのひとつが白倉由美さんの現場だったんです。『セーラー服で一晩中』とかの頃だったかな。当時はまだご結婚されてなかったと思いますが、大塚英志さんの奥さんです。その時に仕事場に入ったら原稿用紙に物凄い効果線が引いてあったんですよ。この集中線を引けるやつは業界にひとりしかいないなと思って、「これオガタ君が描いたんでしょう」と言ったら、ちょうどオガタ君がアシスタントに来ていて。それぐらい上手い人だったんです。
—— その方は、漫画家デビューされたんでしょうか。
菊田 どうなんでしょうねえ。一生懸命描かれていたのは知っていますが、そこから縁がなくなってしまったので分からないです。
—— ツイッターでつぶやかれていましたが、いましろたかしさんの『デメキング』のアシスタントもされていたそうですね。
菊田 してました。あの漫画、面白かったですよね。
—— 『デメキング』は1991年から『ビジネスジャンプ』で連載が始まっていて、それだと菊田さんはすでにスクウェアに入社されているタイミングだと思いますが。
菊田 ギリギリ入社前だったと思いますよ。たしか連載前に描きためていたはずです。ど頭のところを描いているときに、一回アシスタントに行って、三日月とかを塗った覚えがあります。話題がゴチャゴチャしてしまいますけど、いましろ君がゲームに詳しいというんで、「ゲーム業界でどこか仕事を募集しているところはないか」とアシスタントに行ったときに聞いた覚えがあるんですよ。
—— その時にスクウェアの話を聞いたんですか。
菊田 いや、それは違うんです。スクウェアのことはもともと全然知らなかったんですよ。僕はもともとアーケードゲーマーで、コンシューマーのことは全然知りませんでしたから。
—— ちなみに、結城二十六名義の単行本『羚文』の巻末にコメントを寄せられている、星里もちるさんや永野のりこさんも、アシスタントに行かれての繋がりなのでしょうか。
菊田 そうですね。他に、粉味(現・ちばこなみ)さんが徳間の『キャプテン』で描かれていた頃に行ったりしてましたね。他にも単発であちこち行って、色々な人に会ってましたよ。

『マシンヘッド』で『羚文』を連載した理由

—— 結城二十六というペンネームの由来は、直木三十五と同じで、26歳の頃につけられたからですか。
菊田 そうです、そうです。26歳だから二十六っていう。
—— 厳密にいうと、『羚文』の連載第1回の時には27歳になられているようですが。
菊田 たぶん26歳のときから描き始めたからだと思います。
—— このペンネームで『羚文』を描かれたわけですが、掲載誌の『マシンヘッド』(編注*)で連載することになったのは、どんなきっかけがあったのでしょうか。

編注*『マシンヘッド(MACHINE HEAD)』は、「SUPER COMIC WORKSHOP」と銘打たれた、不定期刊のコミック雑誌(編集・スペアパーツプロダクション、発行・白夜書房)。1989年6月に創刊号「001」が発行、その後、1990年11月発行の第7号「007」まで刊行された。毎号の表紙は士郎正宗氏が飾り、青木邦夫、神崎将臣、村枝賢一、玉巻久雄、都筑和彦氏らの作品が掲載。

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菊田 過去に白泉社に持ち込みをしていたのがきっかけですね。その時は芽がでなかったんですが、坂井淳一さんという編集者の方と仲良くなったんです。で、彼がフリーになったからだと思うんですが、「白夜書房でこんな雑誌をだすから描かないか」という話をくれて。
—— 坂井さんという方が『マシンヘッド』を作られていたんですね。雑誌の編集後記には、編集長は「智美」という女性であるかのように描かれていますが。
菊田 嘘ですよ(笑)。『マシンヘッド』は全部彼の人脈で作っていた雑誌で、白泉社にいた頃の流れで作っていたんだと思います。
—— 雑誌からの情報だけでみると、第2号から結城二十六の新連載『羚文』(編注*)が始まったのは、投稿があったからとありますが、実際は知り合いの編集者から声をかけられてということなんですね。

編注*正式タイトルは、『羚文 RAVEN(レイブン)』※タイトルの「文」は「さんずい+文」。『マシンヘッド』第2号から第7号まで連載された、未完のSFアクション漫画。人類が生んだ最高のテクノロジーである電龍(でんりゅう)を倒すため、龍の民の生き残りである少年・羚文が、相棒のメカ・儀浄(ぎじょう)、異民族の姉妹らとともに世界を旅する。

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菊田 白泉社の頃から、坂井さんには自分で作品を描きたいという話をしていましたから、それで声をかけてくれたんです。
—— 『羚文』は、雑誌のカラーにあわせて描いたのでしょうか。それとも、元々こうしたSFアクションものを構想されていた?
菊田 どうだったかなあ……。話をもらってから「こういうのを描いたほうがいいよ」みたいな話を一緒にして決めたような気がします。
—— SFと美少女が押されている、『マシンヘッド』という雑誌のカラーにあった作品ですよね。
菊田 この雑誌自体、SFを基準とした、わりとコンセプチュアルなものですよね。「そういうのを描いてよ」みたいな話があって、今のかたちにまとまっていったんじゃないかと思います。
—— 今回の取材のために一式買い揃えましたが、不思議な雑誌ですね。
菊田 突然でてきた雑誌ですし、そう思われるかもしれないですね。坂井さんが一生懸命作っていて、今思うとこれでも続けて出たほうだと思います。
—— 菊田さんは、結城二十六名義で、第2号から最終号の第7号まで毎号連載。第6号では『AURA』という別冊も予告されていました。著者近況には「連載と別冊の2本立てで大変だ」とありましたが、覚えてらっしゃいますか。
菊田 そういえばそんな話もありましたね。何となく覚えています。
—— 別冊がでているのかどうか気になったんですが、どうやら発売はされていないようです。実際はどうなんでしょう。
菊田 うーん。そんな話があったのは何となく覚えているんですけれど、実際には描いてはいなかった気がしますね。

単行本を1冊だしたら漫画を諦めようと思っていた

—— あらためて『羚文』の話を聞かせてください。アシスタントを経て初の作品ですから、思い入れも深かったのではないかと思います。
菊田 絵はどうにもこうにも下手ですけど、自分の中で物語を作っていく大元のものは、ここにあるような気がします。素材の料理の仕方や物語のもっていき方、そうした諸々のものが入っているんじゃないかなと。
—— おひとりで描かれていたんですか。
菊田 そうですよ。『羚文』を描いていた頃は、我ながらよく仕事をしていたと思います。1日18時間ぐらい描いていたはずです。20数ページの連載1回分を描くとして、まずはコンテなどを準備して、それが全部できてから作画するとなると、1日1ページは描かないと間に合わなかったんですよね。アシスタントを雇うお金の余裕もないから全部自分で描いてました。朝、真っ白な原稿用紙が1枚あって、これを今日寝るまでに完全原稿に仕上げようって感じですよね。枠線を引くところから始めて、下書きを入れ、ペン入れをし、効果を入れ、スクリーントーンを貼り、ホワイトをかけ、「できたあ!」と言って寝る。これを毎日毎日繰り返すような日々でした。
—— 物凄く描き込みのあるページも多いですよね。
菊田 とにかく絵が上手くないから、どうにかして自分の魅力をだそうと一生懸命考えて、頑張っていたんですよ。
—— 世界観が面白いですよね。実際に絵として描かれているところ以外にも、設定など色々考えられていたんじゃないかと思います。
菊田 そう感じてもらえたのなら有り難いですね。なんというか、自分なりに勝負するところってあると思うんですよ。表紙の御大(編注:士郎正宗氏のこと)を筆頭に、とにかく物凄く上手い人たちが沢山いる雑誌の中で、もう絵で勝つことはできないじゃないですか。そこで自分の魅力をどうだしたらいいだろうと。当時、編集の坂井さんとも、「君の魅力はどうやって出すんだ」みたいな話をした覚えがあります。
—— 『羚文』は、第2号から第7号まで皆勤で連載が続いていて、「マシンヘッドコミックス」として単行本も出ているということは、雑誌の中では看板連載だったのではないですか。
菊田 どうだったんでしょうね。ただ、自分なりに一生懸命描いていたのは確かです。キャラクターをちゃんと描きたいと思っていたんですよね。ただ悲しいかな、この当時はやっぱり自分の中でも修練を積んでいる量が少なかったんです。ストーリーの構成や素材の料理の仕方が全然未熟だったから、色々とあまっちゃっているところがあって。ただ魅力の出し方としては、案外面白いところもあったんじゃないかなと思います。
—— 雑誌の編集後記でもネタになっていましたが、途中で絵がガラッと変わっているのにも驚きました。
菊田 絵についても一生懸命考えながら、試行錯誤してたんですよ。いかに作画の手間を少なくできるか考えてましたね。そうすれば、その分絵のクオリティを上げることができますから。『羚文』は、ほんとに一生懸命描いてました。……22歳ぐらいからずっと漫画を描いていて、自分にはこの方向でやっていく才能がないなってことは薄々分かっていたんですよね。でも、そのまま駄目でしたっていう風には終われないじゃないですか。だから、単行本を1冊だしたら(漫画を)辞めようと思っていたんです。そんな思いがあったから、自分の中では『羚文』は単行本を出させてもらって本当に大満足だったんですよ。

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上のコマが連載第1回(左から儀浄、羚文、萊沙、愛沙)、下のコマが連載第5回(儀浄、愛沙、羚文)。絵柄が大きく変化しているのが分かる。

—— 『羚文』は1989年10月から連載が始まり、翌年12月に単行本が発売されました。細かいことですが、実は最後の『マシンヘッド』第7号に掲載された1話分が単行本の収録からもれています。ちょうど話が大きく動き始めたところで、この物語の続きが読めなかったのは残念です。菊田さんがお好きな、武侠ものの要素も入ってますよね。
菊田 ずっと、そういうのが好きなんですよ。本当は、この後もいっぱい話を考えてたんですけどね。ひいき目で見ているのは自覚していますが、『羚文』は自分的には好きな話なんです。今でもこんな風な話を描きたいなと思っているぐらいで。三回転ぐらい巻き戻って、今の方がありな気もするんですよね。
—— ただ、さきほど言われたとおり、単行本がでて、プロ漫画家への道は一区切りつけられようと思われたんですね。
菊田 これで一応、諦めてもいいかなと思ったんです。
—— アシスタントのお仕事を続けていく気持ちはなかったのでしょうか。
菊田 アシスタントは、自分の漫画を描こうと思った瞬間にできなくなったんです。アシスタントの仕事をしていて、「俺、何しているんだろう?」と思ったときから、もうできなくなったというか。言い方は悪いですけど、「人の原稿なんか、どうでもいいじゃないか」と思うようになってしまって。ご飯を食べるための仕事なら、他にやり方はありますしね。アシスタントをしている自分に疑問をもってしまってからは、できなくなってしまったんですよ。
—— プロアシスタントのような道もあったと思いますが、そういう方向も考えられなかったのですか。
菊田 それはそれで職人芸として凄いんですが、僕がやりたいのは表現で、職人になりたいわけでは全然なかった。そんなことを考えだしたときに、自分の作品を1冊だして辞めようと思ったんです。色々な縁があって、坂井さんにお話をいただいて『羚文』を描けたから、これでいいかなと。
—— 物凄く余談ですが、単行本のあとがきで儀浄をリデザインした「赤井君」というのはどんな方なんですか。ひょっとしたら、GAINAXの赤井孝美さんのことかなと思ったんですが。
菊田 いや、違います、違います(笑)。彼はGAINAXとは全然関係のない僕の友達です。ちょっと年下で、つてのあった知り合いなんですけどね。彼は当時から漫画を描いていて、でも上手くいかなくてみたいなことを繰り返しながら、ずっと変わってないやつなんですよ。たまにコミケとかで会って、「ああ、久しぶり」っていうことがあったりしますよ。
—— 今も創作活動をされているんですね。
菊田 やっているみたいですよ。そういうことがあったりするから、コミケットに行くと変な気持ちになるんですよね。初期の頃から活躍されている方々が、当時のまま並んでいる一画があったりするじゃないですか。千之ナイフ先生みたいな方が、時代を越えて座ってらっしゃったりして凄いなと思います。赤井君も、めちゃめちゃ絵が上手くて、メカも僕より全然上手かったんです。凄い才能があるのに生かせなかったんですかね。そういう人が当時はいっぱいいたと思うんですよ。
—— 絵が上手いのと、漫画家として世にでれるかどうかは別問題ということですか。
菊田 やっぱり運や努力だったり、様々な歯車がかみあわないと駄目なんだなということは、漫画を描いているときに分かりました。『羚文』は作品としては未完成で、自分でもまだまだだなと思いますが、修練をつめば面白い物語は描けるんじゃないかという手応えはあったんです。
—— 初めて世にでた創作物ですし、菊田さんにとっては原点といえるような物語でもあるわけですよね。
菊田 漫画としては、もっと積むべき修練が沢山あったと思うんだけれど「自分でも物語は描けるんだ」ということは『羚文』でわかったんです。自分がもっている魅力みたいなものはちゃんとあって、それは自分が修練をつめば発揮できるんだなと。

<第3回を読む>

Information
菊田裕樹さんとギタリスト佐々木秀尚氏によるプログレユニット「ANGELICFORTRESS」のコンセプトアルバム、2083ショップで販売中。
http://shop.2083.jp/?pid=97646687

ゲーム音楽コンサート「NJBP Live! #5 ”Enhancement”」、6月26日(日)に北とぴあ つつじホール(東京都北区王子)にて開催。菊田裕樹さんがゲスト出演し、「聖剣伝説2」「聖剣伝説3」の楽曲を特集。
http://njbp.org/concert/live5/