スクウェアが制作したスーパーファミコンRPGの黄金期を体験したユーザーの中には、ゲーム内容だけでなく、その音楽にも魅了された方が多いのではないだろうか。『聖剣伝説2』『同3』で鮮烈なサウンドを作り上げ、今なお幅広いフィールドで活躍されている作曲家の菊田裕樹さんに、これまで詳らかにされてこなかったお仕事のことなど、様々な話を伺った。
Profile
菊田裕樹 Hiroki Kikuta
作曲家。東京音楽大学特別招聘講師。1962年、愛知県生まれ。スクウェア(現スクウェア・エニックス)在籍時に『聖剣伝説2』『聖剣伝説3』『双界儀』の音楽を担当。独立後も、『シャイ ニング・ハーツ』『エスカ&ロジーのアトリエ〜黄昏の空の錬金術士〜』等、多数のBGM作曲を手がけるなど多方面にて活躍。公式サイト(http://hirokikikuta.com/)、Twitterアカウント(https://twitter.com/Hiroki_Kikuta)。
小学校の頃にSFとノンフィクションを愛読
—— 今日は、菊田さんがゲームの作曲を始める前の活動を中心に伺えればと思います。
菊田 分かりました。話せるだけ話してみたいと思います。やっとそういうことを聞こうという人が現れたんだなって面白いですよ。
—— 菊田さんのお話についていけるか分かりませんが、時間の許すかぎりお願いいたします。
菊田 きっと色んなジャンルに話題が飛んでいくのがいいんでしょうね。こちらこそ、よろしくお願いします。
—— ではまず、菊田さんが創作をされるようになった源流みたいなところから聞かせてください。小さな頃は、どんなものがお好きだったのでしょうか。
菊田 そうですね……。さかのぼると小学校時代にSFが好きだったのが大きいと思います。僕らより上の世代だと、まだマニアックな存在だったSFが、だんだん一般に馴染んで読まれていったタイミングだったんですよね。SFのことは分かります?
—— すみません。多少読んでいるぐらいで、全然詳しくないです。
菊田 いえいえ。僕は「ワイドスクリーン・バロック」というジャンルが好きで、その中でもアルフレッド・エルトン・ヴァン・ヴォークトという人が書くものが凄く好きだったんですよ。古典的な作家で、いちばん有名なものに『宇宙船ビーグル号の冒険』という作品があります。『エイリアン』の元ネタになっていたりするんですけどね。この小説にでてくるビーグル号には、各界の有名な科学者がこぞってのっていて、あらゆる学問の有名な人たちがいるんです。でも、その人たちは「自分の意見の方が正しい」と派閥争いをして、みんな仲が悪い。そんな中ひとりだけ、どの学派にも属さない科学者が乗っている。彼は「総合科学(ネクシャリズム)」という学問の科学者だと名乗るんです。そうして、どの分野にもとどまらないかたちで、バランスをみながら全てをひっくるめて把握しながら、みんなをまとめていく。そこに僕は感動したんですよ。ひとつひとつの専門を究めるのも凄いけれど、それらを横断して見て、全てを組み合わせて考えられる人間が必要なんだなと。僕はその総合科学者に憧れて、そういう存在になりたいと思ったんです。まあ実際には、そんな学問はなかったんですけれど。
—— でも、そうした学問の存在が書かれていることに感銘をうけられたんですね。
菊田 「ああ、いいなあ!」と思いましたね。これとこれを組み合わせたら、もっと凄いことができるみたいな視点をもてる人に憧れたんです。
—— 菊田さんが学生だった70年代後半から80年代前半あたりは、『SFマガジン』も創刊されて、日本にSFが本格的に入ってくる頃ですものね。
菊田 小松(左京)先生の『日本沈没』や、星(新一)先生の作品だったり、SFを書く方々の名前がちゃんとでて、作品が世にでていって人気がでていくタイミングだったと思います。中学生の頃は筒井(康隆)先生の本にはまって、物凄く読んでいました。
—— ご自分では、小さい頃どんなお子さんだったと思われますか。
菊田 うーん。小難しくて理屈っぽい、嫌な子供だったというのは間違いないですよ(笑)。
—— 読書好きということは、どちらかというとインドア派だった?
菊田 そうでもないですね。当時の田舎の子供にはインドアなんて概念はないんですよ。夏になれば虫取り網をもって、もう全員で外にでていきましたし。ただ、そんな中で、漫画や小説を読むのは小さな頃から好きでした。小説は、江戸川乱歩の「少年探偵団」シリーズが好きで、『電人M』や『二十面相』は、今読んでも面白いですよね。小学校の頃は学校の図書館に入り浸って本ばかり読んでました。だいたい3種類の本を読んでたんですよ。NASAの宇宙開発もの、ジャック=イヴ・クストーの海底探査もの、ハインリヒ・シュリーマンの遺跡発掘の話。どれもドキュメンタリーものなんですけど、この3つが好きで、こればかり読んでいました。
—— SF小説だけでなく、ノンフィクションも小さい頃から読まれていたんですね。
菊田 ノンフィクションは、子供の頃から凄く好きでした。そういうものが元々好きだったんですよね。
『ガンダム』のノベライズを読んで創作を意識
—— 創作を意識されるようになったのは、いつ頃ぐらいからだったんでしょうか。
菊田 どうだったかなあ……。昔から絵を描くのは好きだったんですが、創作みたいなことを意識したのはあまりなくて。ただ、自分で何か描いてみようと思ったのは、『(機動戦士)ガンダム』のせいだったと思いますね。
—— そうなんですか。
菊田 アニメがちょうどテレビでやるようになった世代ですから、好きで観てはいたんですけれど、そんなに沢山思い出があるわけではないんですよね。ただやっぱり、『(宇宙戦艦)ヤマト』には興奮したんですよ。今となっては『ヤマト』も色んな意味合いをもつものになりましたが、当時は「『ヤマト』が好きなんだよね」ぐらいで通じる、ある種の感覚があったんです。あと僕は、もともと松本零士先生の戦場漫画シリーズが凄く好きで……。まあ、当時読んだ漫画の話を始めるとほんとに長くなってしまいますが、この辺りの感覚は、僕らの世代と、それ以降の世代の間に、たぶん根本的に違うところがあると思うんですよ。
—— どういったところが違うのでしょう?
菊田 僕らの世代が子供の頃には、戦後の匂いがあったんですよ。漫画をみても、『ジャンプ』や『サンデー』みたいな雑誌にも戦記物の漫画が載っていて、第二次大戦のなんとか部隊の話とかが普通に漫画になっているような時代でしたからね。口絵に、未来の戦車みたいなイラストが載っていたりもして。
—— 地続きで、戦後の爪痕のようなものが残っていたということですか。
菊田 そうそう、残っていたんですよ。僕の親父も外国に戦争にいって、帰ってきた人間でしたからね。小学校の先生も戦争帰りだった。戦争の名残りのようなものが、色んなかたちでまだいっぱい匂っていて、それは漫画やアニメも同じだったんですよね。
—— 確かに、『ヤマト』や『ガンダム』の第1作には、そうした戦後の雰囲気が色濃くでているように思います。
菊田 作っているのは戦後世代だとしても、幼少期には色んなところに戦争の爪痕があったから、そのリアリズムは残っていたと思うんですよね。で、『ガンダム』にハマった話に戻ると、たまたま学校から帰ってきてテレビをつけたら、最初の回がやっていたんですよ。なんだか新しいロボットアニメがやっているなと思いながら観ていたら、丸い形をしたロボットが銃を撃って「弾が切れた」と言っていたんです。これには凄く衝撃をうけました。当時、ロボットアニメの弾なんて無尽蔵にでるのが当たり前で、弾が切れるロボットなんて初めてでしたからね。観た瞬間に、時代がゴロンって変わったのが分かったような気がしました。そこから富野(由悠季)さんが作るものは「凄いな」と思いながら観始めたのが大きかったんです。それで、最初の『ガンダム』ももちろん凄く良かったんですけど、僕にとってはやっぱり次の『(伝説巨神)イデオン』が本当にたまらなくて。人間ドラマと群像劇とSFの全てがちゃんとおさまっていて、突き抜けるところまでいくのが観られて、素晴らしかったんですよ。
—— 『イデオン』は、テレビも劇場もお好きなんですか
菊田 全部ふくめて大好きですね。湖川(友謙)さんの作画も素晴らしかったし、何よりすぎやま(こういち)先生の音楽が素晴らしかったんです。富野さんの音楽を使うセンスも凄かったですしね。映像に音が入ってくるタイミングのセンスとか、ずば抜けてますよ。「宇宙の果ての果てまで追いかけてでも、ロゴ・ダウの異星人の船を叩け!」ってセリフのあとに、バーンパーンパーンダーンって音楽が入るっていう(笑)(編注:『イデオン』第39話「コスモスに君と」の1シーン)。あんなことができる人、他にいないと思いますよ。普通は、あんなことできない。
—— 以前イベント(編注:2014年7月27日に、2083ゼミ主催で行われた「菊田裕樹のハイテンションワイヤー」)でも、すぎやまこういちさんが手がけたアニメの音楽について話されてましたよね。
菊田 僕にとって、すぎやま先生は『ドラクエ』の人じゃなくて、『イデオン』と『シリウス(の伝説)』の人なんです。あの2作の音楽があまりにも素晴らしくて、その影響を色濃く受けていると思います。自分の中にあるアニメを語るとしたら、やっぱり『ガンダム』と『イデオン』がいちばん大きなものになるんじゃないかなという気がしますね。
—— 菊田さんが、そんなに『ガンダム』がお好きだとは思いませんでした。
菊田 難しいのは、「『ガンダム』いいよね」と言ったとしても、その言葉は、今話したようにはなかなか受け止められないじゃないですか。今は『ガンダム』という名前のもとに様々な世界観があり、様々なファンの人たちがいて、到底ひとくくりにはできないものになっていますよね。僕自身は、それらを全部肯定できるわけではなくて、その中で「僕の好きなものはこういうもの」っていうニュアンスを共有してもらうのは難しいように思うんです。でもやっぱり、最初の『ガンダム』は凄くいいなと思ったんですよね。その後の『ガンダム』にはないけれど、最初のだけ戦争映画の匂いがするんですよ。ハリウッドや日本で沢山作られた、第二次大戦をふまえた戦争の人間ドラマを描いた匂いみたいなものがあって、自分には馴染むなっていう。あくまで群像劇で、戦争にはバカバカしい部分やシリアスな部分など色々な面があるんだという映画を、僕らは沢山観てきましたから。
—— そんな『ガンダム』のどこが、菊田さんを創作にむかわせたのでしょうか。
菊田 そういう話でしたよね(笑)。きっかけは、富野さんが『ガンダム』の小説を書いたことなんですよ。ノベライズのはしりですよね。まあ小説ではないというか、ご自身もそう呼べるものではないとおっしゃっていますけど、面白かったんですよね。で、「そういうことをしてもいいんだ」と思ったんです。富野さん自身が、自分の思う世界を、小説のかたちにはなっていないかもしれないけれど文章のかたちにして発表する。そして、それが読めるというのは凄いなと。ということは、僕も書いていいんじゃないかって考えるようになるじゃないですか。これは、凄く大きなきっかけになったように思いますね。これまでは小説は小説家が書くものだと思っていましたから。
—— なるほど。
菊田 富野さんは小説家ではなくて、こんなものしか書けないけれど俺は書きたいからといって書いた。それを読んで「あ、そうか。やっていいんだ」っていう。これは凄く面白いと思いましたね。でも、そういった話も田舎に住んでいるとまわりにできる人がなかなかいないんです。それで大阪の大学にいったんですけどね。人が集まっているところなら、自分と同じような考えのやつもいるんじゃないか。大阪にでてきたのは、それがいちばん大きかったですね。
「表現していい」という圧倒的肯定感があった大学漫研
—— 大学では、どんなサークルに入ったのでしょうか。
菊田 1981年に関西大学に入学して、もともと音楽も好きだったから音楽サークルに入りたかったんですよ。でも、自分とは毛色がちょっとあわなかったので、漫画のサークルに入ったんです。特に予備情報もなく、漫画同好会という大きなサークルに偶然入ったんですが、そのサークルに入ったことがその後の僕の流れを変えるきっかけではありましたね。漫画同好会は、いしいひさいちさんなどが在籍されていた、面白いところだったんですよ。大学自体が物凄く人がいっぱいいるところなんですが、サークルの人数も多くて、なおかつみんなこぞって漫画を描いたんですよね。毎月会誌をだしていて。謄写版印刷って分かります?
—— 一度版下のようなものを作って、印刷する機械ですよね。
菊田 そうそう、昔のガリ版を自動化したような原始的な印刷機です。その印刷機がおいてあって、毎月会誌を会員の人数分作っていたんですよ。基本的に、会員が漫画を描けば載っけてくれる。これは良くてあれが駄目みたいな基準があるわけではなく、なんでも載るから、アホほど描くやつもでてきて何百ページにもなる。これが毎月でるんですよ。
—— 凄いですね。
菊田 中を読むと、まあ訳のわからない内容のものもありましてね(笑)。大学生が自分の思いのたけをぶつけている漫画ですから当然なんですが、それが良かったんですよ。とにかく自由なんですよね。凄い人だと前後編で100ページずつ描いてきて、頭おかしいなと思ったりもしましたけれど、「あ、描いていいんだ」「表現していいんだ」という圧倒的な肯定があったんです。思いついて描いたものを発表して、みんなに見せていいんだっていう。僕にとって、サークルのいちばん大きなポイントはそこでしたね。また、たまたま僕が入った年に一緒に入った連中が、みんな漫画が上手かったんですよ。それで「俺も描けるかも」と思ったんですよね。あとから思うと、これは勘違いだったんですけれど(笑)。どんどん描いて表現していける環境と、凄く上手い人たちが身の回りにいたっていうのが大きかったんです。漫画を読むのは好きだったし、頭の中で考えていることはあった。だから、漫画を描いて食べていけるかなみたいなことを当時思ったんですよね。今の話とは別に、大学のサークルの人脈にはのちのち助けられるんですけれど……それはまたあとでお話します。
『DAICON IV OPENING ANIMATION』を観て感じた絶望感
—— サークルでは、他にどんなことをされていたんですか。
菊田 漫画のほかに、アマチュアアニメを作っていました。ちょうど「DAICON」(編注:日本SF大会の大阪コンベンションの愛称)があった頃ですから。「DAICON3」のオープニングアニメ(「DAICON III OPENING ANIMATION」)を観て、大芸大(大阪芸術大学)には「凄いやつらがいるなあ」と思いましたよ。
—— 同じ関西の大学ですものね。
菊田 ちょうどジャストのタイミングだったんですよ。桃谷にゼネプロができるときいて開店初日にいき、グッズを買って会員証をもらったりもしました。ちなみに、会員番号は6番でした(笑)。そんな頃、僕らは「DAICON 4」に向けてアマチュアアニメを作ろうと、一生懸命アニメを作っていたんです。
—— 菊田さんは、どのような立場で関わられたのですか。
菊田 絵描きだったから、原画を描いてましたよ。絵が上手くなかったから、枚数で勝負だって沢山描いたりして。音もつけたりして、色々と一生懸命にやっていたんですけどね。
—— そのアマチュアアニメは、どんな作品だったんですか。
菊田 当時、僕がいたアマチュアアニメを作っている人達を仕切っていた人が、吾妻ひでお先生のファンクラブに深く関わっていたんですよ。それで、「DAICON 4」の中のひとつのコーナーみたいなかたちで吾妻先生のイベントをやることになり、そのオープニングアニメを作ろうということになったんです(編注*)。
編注*1983年に開催された第22回日本SF大会(「DAICON 4」)の企画のひとつして行われた「AZICON」のこと。そのオープングアニメとして『オールスタァ十三大キャラ 吾妻総進撃』が制作された。個人サイト『吾妻ひでお作品のあらすじ』にて、詳しく解説されている(http://azumahideosakuhin3arasuji.web.fc2.com/91azicon.html)。
—— ということは、吾妻ひでおさんのキャラクターや世界観で作ったアニメなんですね。
菊田 けっこうな手間がかかるもので、みんなで一生懸命作りました。僕らは絵を描くだけでしたが、吾妻ひでお先生のファンクラブの人達にはセルを塗ってもらったりしたんです。8ミリをまわして1コマ1コマ撮影して、そうやって完成したものをもって「DAICON 4」に行きました。で、その初日にあの「DAICON 4」のオープニングアニメ(『DAICON IV OPENING ANIMATION』)を観て、もう到底敵わないなと思い……。この気持ちをわかってもらうのは難しいかもしれないですれど。
—— それだけショックを受けられたわけですね。
菊田 あれを観せられた瞬間、「これは駄目だ」と思いましたね。「この連中には到底敵わない」という圧倒的な感じがして。あのときの絶望感は、まあ凄いものがありましたよ。
—— 同じアマチュアの土俵で、これだけのものを作られたというのが衝撃だったのでしょうか。
菊田 たしかにプロが作っていたら、また違った感想を持ったと思います。当時、『(超時空要塞)マクロス』のオープニングの背景動画をみて、「こんなの作りたい」と思ったりもしましたけども、「DAICON 4」のオープニングアニメを観た時には同じようには思えなかったんです。「これは無理!」となるレベルだったんですよね。「DAICON 3」のオープニングや『じょうぶなタイヤ』を作っていた人達があれだけのものを作るとは想像もできないというか……。あの剣がブワッと分かれて飛んでいくシーンをみせられた瞬間、少しでもアニメをやりたいと思っていた人間が感じた絶望感というのは凄いものがあったと思います。
—— 実写ドラマ化もされた漫画『アオイホノオ』(島本和彦 著)でも、菊田さんが言われたような描写がありました。
菊田 あの漫画は大阪芸大の中からみた話で、自分とは直接的な関わりはないですけど、僕も同じ時代にわりと近いところにいて一生懸命やっていた立場の人間ではありました。ゼネプロの人達から受けた衝撃というのは本当に凄くて、「これは(アニメを)できない」と思わされたんですよねえ……。(少し間があって)当時のことは思い入れが強すぎて、上手く伝えられてないかもしれないですけれど。僕は性格がよくないから、いろいろな人に迷惑をかけたと思いますが、アマチュアアニメを作ること自体はとても面白かったんです。ただ、当時の気持ちを言おうとなると頭の中にグルグルするものがありすぎて……。
—— 菊田さんのお話を聞くと、「DAICON 4」のオープニングアニメのインパクトは本当に大きかったんだとあらためて思います。
菊田 断言はできないですけど、あの当時、同じように思った人はいっぱいいたんじゃないかと思いますよ。少なくとも、アマチュアアニメの世界で作ろうと思える次元じゃなかった。あれを観た人はみんなひっくり返ってましたね。
一切の規制がなかった当時のコミケット
—— 漫画の話に戻りますが、コミックマーケットに初めて参加されたのは、いつ頃だったんですか。
菊田 いつだったかなあ……。最初は遊びにいっただけで、描いたものを売りにいったのは少し後だったはずです。初めて行ったのは1982年頃でしたかね。1981年に特撮大会というのもあったんですよ。特撮ファンが集まる大きなファンイベントで、たしか杉並公会堂でやったと思います。僕はアニメも好きだけど、むしろ特撮ファンでしたから。
—— 菊田さんの世代ですと、そうですよね。
菊田 僕らの世代は観ようと思わなくても、テレビで何回も何回もやっていて、もう全部観ちゃうんですよ。僕は東宝の特撮が好きで、その辺が守備範囲だったんですけどね。だから、特撮大会にも行っていて。
—— そんなイベントもあったんですね。
菊田 掘っていくと、色々な話がでてくるんですよ。そのイベントにもゼネプロの人達は来てましたしね。ここでも色々なアマチュアフィルムが上映されていて凄く面白くて……こんな話をしていると、どんどん脱線してしまいますけど(笑)。でもまあ、この辺りの話は僕なんかが喋るべきことじゃないんですよね。もっともっと詳しい中心軸の人達がいっぱいいるわけですから、本当はそうした方達に喋ってもらえばいいと思うんです。僕なんかは、ちょっと離れたところから見ていただけですし、記憶も曖昧ですからね。
—— 菊田さんが、そうしたイベントにも参加していたという話は興味深いです。
菊田 音楽につながる話でいえば、もともと僕は東宝特撮が好きだったから、伊福部(昭)先生の音楽に凄く馴染んでいたんですよ。高校生の頃から聴いてました。話を戻すと、コミケットはその頃、年に3回あって、わざわざ大阪から東京に行くのがまた楽しかったんですよね。お金がないから夜行列車の鈍行に乗ってちんたらちんたら行って、朝に東京がついたら時間をつぶしながら、ゆっくり晴海まで歩いていくんですよね。
—— 歩いてですか。
菊田 そう。途中で勝鬨橋を渡るんですけど、これが気持ちいいんですよね。色々な人の意見があると思いますけど、当時のコミケットは「なんでもあり」で、一切の規制がなかったんですよ。何を描いてもよかった。これは最高ですよね(笑)。
—— (笑)
菊田 「あれはいかん、これはいかん」とかいうことが全くなくて素晴らしかったですよ。まさに表現の自由ですよね。「これは天国だ」と思いましたもん。僕らが育ってきた時代は、音楽ひとつとってみてもレコ倫のようなものがあったし、漫画や小説にも規制が入っていた。規制が何もなく表現できる場所がなかったんですけど、それがコミケットにはあったんです。あの場で描くのは凄くいいなと思ったのは自由だったからなんですよね。ほんとに楽しかったですよ。
Information
菊田裕樹さんとギタリスト佐々木秀尚氏によるプログレユニット「ANGELICFORTRESS」のコンセプトアルバム、2083ショップで販売中。
http://shop.2083.jp/?pid=97646687
ゲーム音楽コンサート「NJBP Live! #5 ”Enhancement”」、6月26日(日)に北とぴあ つつじホール(東京都北区王子)にて開催。菊田裕樹さんがゲスト出演し、「聖剣伝説2」「聖剣伝説3」の楽曲を特集。
http://njbp.org/concert/live5/