テレビアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』(1995~96)は、2025年で放送開始30年をむかえる。最終回の第26話「世界の中心でアイを叫んだけもの」は放送当時大変な物議をかもし、今で言うところの“大炎上”をまきおこした。
そんな渦中にある庵野秀明監督へのインタビューを企画したのが、『サルでも描けるまんが教室』で知られる編集家の竹熊健太郎氏だった。大泉実成氏と実施した『クイックジャパン』での庵野監督ロングインタビューは雑誌が完売するほどの話題となり、のちに『庵野秀明 スキゾ・エヴァンゲリオン』『同 パラノ・エヴァンゲリオン』として書籍化もされた。
当時の『エヴァ』の一級の資料でもある『QJ』のインタビューは、どのような経緯で成立したのか。Facebookで繋がっている竹熊氏に左記のような依頼状(※同人誌には掲載)を送ったところ、「現在、私は庵野監督とは疎遠であり、おそらく庵野氏には迷惑な取材かもしれません。その上で、当時のことを私の立場で語るのであれば、お引き受けします」という前提で取材を請けていただいた。
『エヴァ』の話題から始まったインタビューは、竹熊氏が現在取り組んでいる「ベラドンナ原画復元計画」(編注)に始まる新たな自主出版計画の展望や新たな創作の構想、1990年代当時のサブカル・オタクライターとの交友関係など、さまざまな方向に広がった。それらはすべて関連があり、約30年前の過去と現在を繋ぐ貴重な内容になった手ごたえがある。けれど、はっきり申しあげて、このインタビューを完全に楽しむには前提条件が多く、そのすべてを誌面で説明することはできない。当時の『エヴァ』ファン、庵野監督のファン、そして竹熊氏のファンに楽しんでいただければと思う。
編注:「ベラドンナ原画復元計画」は、1973年に公開された虫プロダクション最後の長編アニメーション映画『哀しみのベラドンナ』(監督:山本暎一、美術:深井国)の失われた美術原画を、原画作者の監修のもとに復元し、アート作品として蘇らせるプロジェクト。クラウドファンディング第1弾では目標金額300万円の2倍を超える約695万円が集まった。豪華画集制作に向けた第2弾クラウドファンディングは近日開始予定。最新の情報は下記のポータルサイトまで。
https://mavo.pub/
※本記事は、2024年末の「コミックマーケット105」で頒布する紙の同人誌新刊『別冊AniKo(2)』に収録したインタビューの試し読みです。全体約2万5000字のうち冒頭約4000字を掲載しました。続きを読みたいと思われた方は、恐縮ながら『別冊AniKo(2)』をお買い求めください。「コミックマーケット105」2日目の2024年12月30日(月)、AniKoのスペース「月-東イ57b」で頒布するほか、松風工房「月-西た27a」でも委託頒布されます。
(2025年1月3日追記)メロンブックスで通信販売中です(https://www.melonbooks.co.jp/detail/detail.php?product_id=2730745)。
Profile
竹熊健太郎 Kentaro Takekuma
1960年生まれ、東京都出身。文筆家・編集家、ウェブ漫画雑誌『電脳マヴォ』編集長。主な著書に、『サルでも描けるまんが教室』(相原コージ氏と共著)、『私とハルマゲドン おたく宗教としてのオウム真理教』『箆棒な人々 戦後サブカルチャー偉人伝』『マンガ原稿料はなぜ安いのか?』『フリーランス、40歳の壁 自由業者は、どうして40歳から仕事が減るのか?』など。X(Twitter)アカウント@kentaro666
―― 依頼状にも書かせていただいたとおり、私は大学時代に竹熊さんが『クイックジャパン』(以下、『QJ』と略)でやられた『エヴァ』の庵野(秀明)監督インタビューを読んだことをきっかけに、アニメに関する仕事をするようになった人間です。今日は『QJ』の庵野監督インタビューがどのような経緯で実施されたのかを中心に伺えればと思っています。取材のきっかけは、1996年の5月に吉祥寺で庵野監督に偶然会ったことだったそうですね。
竹熊 テレビシリーズの放映が終わった1カ月後ぐらいですね。放映中は僕、『エヴァ』は観てなかったんですよ。放映後にちょっと観てみようと思って友達からエアチェックしたビデオを借りて全部観てそれでハマったんです。
―― 5月に庵野監督と会った時点で、『QJ』でインタビューができる目算があったわけですよね。
竹熊 庵野監督と会う前から、僕と一緒にインタビューをした大泉(実成)さんも『エヴァ』にハマっていて、一緒に盛りあがっていたんですよ。僕と大泉さんは当時、赤田(祐一)編集長時代の『QJ』のメインライターで、それもあって2人で赤田君にインタビューをやろうと推したんです。赤田君は『(宇宙戦艦)ヤマト』ぐらいまではアニメにハマっていたんだけど、それ以降は興味がなくなっていて、むしろアニメは嫌いなほうだったんですね。いわゆるオタクとサブカルでいうと、ややサブカル寄りっていうか。ただ、僕と大泉さんがあまりに熱心に勧めるんで、ちょっと観てみようかという話になり、僕のアパートに2日間缶詰めになってもらって、まずは僕がセレクトした『エヴァ』のさわりの流れを観てもらった。赤田君は最初のほうは辛そうに観ていたんだけど、当時物議をかもした最後の25、26話になると目が輝いて、これは面白いと。普通のアニメオタクとは真逆の反応で、そこが面白かったんですね。
赤田君は庵野監督のインタビューに全部立ち会ってくれたんだけど、インタビューが終わったあと、すごく暗い顔をしていたんです。なぜかというと、「今、庵野さんのようなインタビューがとれるミュージシャンはいない」と。赤田君はもともと音楽系の編集者だから、庵野さんのことをそんなふうに彼は評価したのね。「今あそこまでの自己表現をして、自分を全投入するようなミュージシャンはいない」と言うわけ。まあ僕も庵野さんのそうした姿勢に賛同したわけなんだけど。
テレビシリーズの『エヴァ』って作画が終盤ヘロヘロになっている回もあるんだけど、とにかくテンションが高いじゃない。こんなテレビ番組はちょっと観たことないと思ったし、勝手ながら『サルまん(サルでも描けるまんが教室)』ぽいものを感じたんですね。庵野さんと僕は同い年で、同世代ということもあったから。
―― 最終回で綾波(レイ)が食パンをくわえながら「遅刻、遅刻」みたいに駆けるところとかそうですよね。
竹熊 あのへん『サルまん』だよね。たぶん意識していたと思う。『エヴァ』の作り方って『サルまん』の「とんち番長」みたいなところがあるなと思っていて、作者の側がどんどん追い詰められていって、最終的に作品そのものが壊れるっていう。
―― たしかに「とんち番長」のサッカーの話が電波回になって、作中の竹熊と相原が壊れてしまうエピソードがありました。
竹熊 そのへんでもすごく共感した部分があって、僕と相原(コージ)君が『サルまん』をやってたときはこうだったなってね。で、結局、『エヴァンゲリオン』は最後をあのラストにしたことで生き残ったんですよ。適当にって言ったらあれだけど、多少クオリティは下がるけれど、普通のアニメとして終わらせることは十分可能だったと思うし、普通はそっちを選択するんですよ。それが中途半端なものを出すぐらいだったらと、(碇)シンジをパイプイスに座らせて会話させる、あのカルトセミナーみたいなかたちで終わらせることを選んだ。エンタメのアニメーションとしては、まあ失格なんだけど、表現として、あれはありだったんですよね。最終的に話題にもなりましたから。
作り手の人生を聞くインタビュー
―― 当時、竹熊さんは岡田斗司夫さんと対談の連載をされていて、その対談の帰りに庵野監督と偶然会って、そこでインタビューが決まったそうですね。
竹熊 そうなんですよ。岡田さんと僕が対談していたホテルから出て吉祥寺の道を歩いていたら、向こうからどこかで見たような顔をした背の高い人が、作曲家の田中公平さんと2人で歩いてきて。お互い「あっ」て感じになって、僕から「よかったら食事でもしませんか」と誘って、そこで話が盛りあがって意気投合したんです。その横には岡田さんもいて、ちょっと憂鬱な顔で座っていたんだけど、岡田さんからすれば僕が庵野さんに近づくのは悪夢だったんだね。これは、あとで分かったんですけどね。
庵野さんには、実は僕は今、『クイックジャパン』というサブカルチャーの若者雑誌で記事を書いていて、そこでインタビューをお願いできますかという話をして、その場でOKだった。これもあとから分かったことですけど、当時の彼はアニメマスコミにうんざりしていたようなのね。『アニメージュ』や『ニュータイプ』のようなアニメ雑誌の通り一遍の記事づくりにうんざりしていたところで、そこにアニメとはまったく畑違いのサブカル雑誌から取材依頼がきたっていうんで、庵野さんとしても、むしろ待ってましたみたいなところはあったみたいです。そんな経緯であのインタビューは実現したんだけれど。
―― 『クイックジャパン』のインタビューをあらためて読むと、ノンフィクションライターの大泉さんと2人で話を聞くかたちがよくて、それでこれだけの話が聞けたのかなと思います。
竹熊 大泉さんはあの頃、オウム真理教への潜入取材をやっていたんですよ。信者として中に入って内側から取材していた。そうした潜入取材を得意とするノンフィクションライターでしたから。
当時の大泉さんは、精神的にすごく追い詰められていた。オウムの信者になって入りこんでいるから、公安警察にもマークされていてね。夜中に大泉さんと電話をしていたら、いきなり彼が怒鳴るから何かと思ったら、「今公安が盗聴してます」なんてこともあって、それぐらい追い詰められた状況だった。そんなときに『エヴァンゲリオン』を観て、彼としては綾波レイに救われたというわけ。綾波に救われるっていうのは、どうかしてると思うんだけど(笑)、そんなわけで大泉さんと2人でやろうと。大泉さんが赤田編集長を説得してくれなかったら、あのインタビューは成立しなかったですからね。で、最初にインタビューした号(※第9号)は完売したんですよ。これには赤田君もビックリして、「もう一回やりましょう」ということになった。
―― 最初のインタビューは、何時間ぐらい取材したのでしょう。
竹熊 1回のインタビューで、たぶん5時間はやったよね。2回目とあわせたら、たしか10時間ぐらいやっていて、かなりたっぷりやることができたんです。で、僕らはアニメメディアが聞くような項目ではなく、庵野さんの人生を聞くようなことをやったわけ。ああいう内容、おそらく当時のアニメ雑誌ではなかったんじゃないですかね。一方、音楽雑誌のミュージシャンのロングインタビューだと、そのミュージシャンの人生の話を聞くのは普通じゃないですか。つまり、作品も面白いんだけど、その面白い作品を作ったクリエイターはどんな人かっていうのを読者は知りたいと思うんです。『QJ』では、それを聞いたわけですね。庵野さんと僕は同い年で、大泉さんも同世代だから、観てきたアニメやテレビ番組、映画などが一致して、それもあってわりと上手くできたっていう。そもそも僕も大泉さんもそこまでのオタクじゃないんで、極度にマニアックな質問はしなかったんですよ。それも良かったのかもしれない。
―― 今読み返しても、庵野監督も覚悟をもって、ちょっと普段は話さないことを話しているっていう雰囲気がすごく伝わってきます。
竹熊 最初の号では、僕も原稿を書いているよね(※『パラノ・エヴァンゲリオン』の巻末にも収録された「私とエヴァンゲリオン」)。これは、僕なりの当時の『エヴァンゲリオン』の感想です。まあ、そういう記事をやって、それが完売したっていうんで、もう一回やりましょうと赤田君のほうから企画をだしてきて。僕としては「またやるのか」と思ったんだけど。
―― ああ、そうなんですね。
竹熊 で、庵野さんに聞いたら「やりましょう」となって、今度はもうちょっと突っこんだ話をしましょうかと。
―― 編集長の赤田さんが、それぐらい推されたこともあって、庵野監督が表紙になったんですかね。
竹熊 そう。庵野さんを表紙にしましょうというのは赤田君の判断ですよ。撮影前に庵野さんは美容院に行って、(『QJ』第10号の表紙を見ながら)こういう表紙を撮って。まあ大サービスですよね。それでインタビューを2回やったんで、これ本にしましょうかってことになったんです。一回一回、相当聞いてますからね。
※試し読みはここまでです